Masuk「今日、うちに来られる?」
木曜日の午前、美佐子から電話が来た。紬は窓辺に広げていたスケッチブックを閉じた。母のほうから来るように言うのは珍しく、まず何かあったのかと尋ねた。
「別に何もないよ。おかずを作っておいたの。あんたたちに持たせようと思って」
「直人さんは今日、行けないと思うけど」
「忙しい人を呼んだりしないよ。あんたが持って帰ればいいでしょう」
紬は広げていたページをもう一度見た。カップを洗う女の手と、乾いたふきんのかかった窓枠を描いたページだった。下描きを整えてみたかったが、急ぐことではない。母の作っておいた料理は、今日取りに行かなければならなかった。
「お昼に行くね。何かいる?」
「来る途中でエゴマ油を買ってきて。この前あんたが持ってきたの、おいしかったから」
紬はメモ帳を開いた。エゴマ油、母の好きな豆腐。その下に書いてあった「自分の絵の整理」は消さずに、1行下へ移した。
出かける支度をしていると、入金の通知が出た。生活費を受け取る口座だった。紬は直人への返事を書きかけて、その上に真帆からの、原稿を受け取ったというメッセージがあるのを見た。
直人は、今月はいろいろ出費があるだろうから少し送ったというメッセージも残していた。紬はありがとうと返し、先延ばしにしていた管理費を先に振り込んだ。残高を確かめてから、カートに入れておいたペンの替え芯も注文した。先がすり減り、細い線を描くたびに滑っていたところだった。
直人に新しいペンを買ってほしいと言えば、買ってくれるだろう。値段を気にする人ではなかった。ただ、何に使うのかという質問がついてきて、そのたびに紬は自分の絵について説明しなければならなかった。
替え芯を注文したことは言わなかった。届け先を自宅に指定して、画面を閉じた。
バスに乗る前に商店街へ寄った。エゴマ油を買った店の隣で、店の人が折りたたまれた箱を広げていた。中には新しく入荷したカップが新聞紙に包まれている。
紬は包みをほどく手を見て、歩みを緩めた。店の人はカップを取り出すと、まず縁を確かめた。傷があれば指先に引っかかるらしい。傷のないカップと、ひびの入ったカップを置く場所は別だった。
「何かお探しですか?」
「いえ。これ、小さいのを1つ見せてください」
内側に青い線の入ったカップだった。紬は持ち手を握ってみた。見た目より軽いのがよかった。食器棚にカップがないわけではないのに、きれいに拭いた自分の机に置けば似合いそうだった。
値札を見ても長いこと持ったままでいると、店の人が包装紙を差し出した。
「贈り物でしたらお包みしますよ」
「自分で使うんです」
そう言ってからも、紬はカップを戻さなかった。エゴマ油と一緒にならないよう、小さな紙袋に別に入れてもらった。
美佐子はキッチンで魚を焼いていた。紬が入ると、うれしそうに挨拶する代わりに買い物袋を受け取り、冷蔵庫にしまった。
「よく買ってきたね。ここの豆腐はしっかりしてて好き」
「お母さん、油がはねてるよ。私がやる」
「いいよ。あんたが来る前に終わらせようと思ってたんだけど、電話が長くなって」
食卓にはすでに保存容器がいくつも並んでいた。紬が手を洗って座ると、美佐子は魚の身の厚い部分を取り分け、小皿に載せた。皿は紬の前ではなく、蓋の開いた保存容器の隣に置かれた。
「直人さん、こういうのよく食べるでしょう?」
「うん。でも今日は私と食べない?」
美佐子が笑った。
「あんたの分は別にあるよ。あの人は手のかかるおかずを作ってあげないと、ちゃんと食べないんでしょう」
紬はそれ以上言わずに箸を取った。母が出してくれた皿にも身は十分にあった。寂しいと言うには、目の前に置かれたものが足りないわけではない。だから、どこから話せばいいのかわからなかった。
美佐子はご飯をよそうなり、直人の近況を尋ねた。新作は順調なのか、来月のイベントには人がたくさん来るのか、今年も賞を取るのか。
「賞はまだわからない。候補の話はあるみたいだけど」
「じゃあ、取れるかもしれないんだね」
「お母さん、まだ決まったことは何もないよ」
「誰が決まったって言ったの? 取れるかもしれないって言っただけでしょう」
美佐子がスマートフォンを引き寄せた。紬はもう一口ご飯を食べてから、母がグループのトーク画面に何か書いていると気づいた。
「どこにも言わないで」
「あんたたちの周りに話すんじゃないよ。私の友達に言うだけ」
紬は箸を置いた。その友達が直人をどれだけ知っているのか、彼の受賞になぜこんなに関心があるのか聞きたかった。代わりに画面の明かりが消えるまで待ち、用意してきた話を切り出した。
「私もね、最近、昔の絵を少し見てるの」
「何の絵?」
「自分で描いてたもの。短い漫画」
「ああ、昔ネットに載せてたやつ?」
紬はうなずいた。
「あの後も少しずつ描いたものがあるの。まとめたら、読めるものになりそうで」
美佐子は汁椀を動かしながら尋ねた。
「直人さんは何て?」
「まだちゃんと見せられてない」
「じゃあ、先に見せなきゃ。家に専門家がいるんだから」
紬は膝に置いたバッグのファスナーに触れた。中にはバスの中で何度も開いて見たタブレットがある。まだ描き足りないところは気になっていたが、母に1編だけでも見せようと持ってきたのだ。
「お母さんに先に見せたくて」
「私には、そういうのを見てもわからないよ」
「わからなくてもいいの。ただ、ちゃんと読めるかどうかだけ」
美佐子は困ったように笑った。眼鏡がどこにあるかわからないと言い、食卓の端にあるのを見つけてもかけなかった。魚が冷めると言って、紬の皿に箸を伸ばす。
「あんたは小さい頃から絵が好きだったね。でも、好きなのと仕事にするのは違うものだよ」
「仕事にするっていうのは……」
「趣味ならもっと気楽にやればいいね。直人さんのそばで手伝いながら」
紬は開いていたバッグのファスナーを閉じた。絵を見せれば、母は今からでも言うことを変えるかもしれない。でも絵を取り出した瞬間、うまいか下手かを判定される場になりそうだった。
聞きたかったのは、そんなことではない。
最後の場面で、なぜ女がカップを洗わずに置いたのか。それが不自然ではないか、知りたかった。
美佐子の電話が鳴った。友達からだった。母は食卓ですぐに電話に出た。
「うん、紬が来てるよ。おかずを持って帰るように言ったの。娘婿? 忙しいって。今度、単行本のイベントもあって……」
紬は汁をもう少し飲んだ。美佐子が話しながら指した皿を、保存容器のほうへ移した。魚に骨が残っていないか確かめると、指先に小さなものが引っかかり、取り除いた。
電話が終わるのを待つ間、紙袋が目に入った。商店街で買ったカップを見せようと出しておいたが、美佐子は中をのぞきもしなかった。紬は袋の口を折った。
美佐子は電話の相手に、娘がいい結婚をして安心したと話した。紬はその言葉が終わってから立ち上がり、空の器を流しに持っていった。
洗い物が終わる頃、美佐子がキッチンへ来た。
「友達の孫が漫画を好きなんだって。直人さんのサインを1つもらえない?」
「来月のイベントに来てもらうのはだめ?」
「どれだけ並ぶと思うの。あんたに言えば簡単でしょう」
「イベントのほうに聞いてみるね。できるとは約束できないけど」
美佐子が意外そうに紬を見た。紬は皿の水気を拭いてから、つけ加えた。
「名前と、どの本かを先に聞いておいて。私も確認しないといけないから」
それだけでも顔が熱くなった。引き受けられないと言ったわけでもない。それなのに美佐子が一瞬黙ると、わけもなく冷たくしてしまった気がした。
「わかった。忙しいならいいよ」
紬はすぐに違うとは答えなかった。ふきんをかけて手を乾かす間、少しの沈黙をそのままにした。
家へ帰るバスの中で、直人からメッセージが来た。
[お義母さんの家に行った?]
[うん。今帰るところ]
[受賞の話はまだどこにも言わないでって伝えて。決まったわけじゃないから]
紬は、もう伝えたと返した。その後に、母が自分の絵の話をほとんど聞いてくれなかったと書きかけ、直人の返事を先に思い浮かべて消した。
俺に見せればいいだろ。
今は忙しいから、また今度。
タブレットを取り出した。完成していない小さな話が、それぞれ日付の違うフォルダーに散らばっていた。4年前に描いたものも、先月数コマ描き足したものもある。直人の原稿を保存したフォルダーに、間違って入っているファイルもあった。
紬は、1人で読むときに心地よい順番と、誰かが初めて読むときに必要な順番は違うと知っていた。でも今まで、自分の作品を読む順番を決めたことはなかった。いつも別の原稿が先だった。
バスが急に止まり、紙袋の中でカップが軽くぶつかった。紬は袋を膝の間に立てた。さっきカップを買った店で、店の人が言った言葉を思い出す。
贈り物でしたらお包みしますよ。
自分で使うのだと答えた。数時間前には、その言葉を難なく言えたのだった。
家には誰もいなかった。紬は持ち帰ったおかずを冷蔵庫に入れ、母に無事着いたとメッセージを送った。美佐子からは、魚から先に温めてあげるよう返事が来た。
紬は返事をしないまま仕事部屋へ行った。
まずカップを洗った。青い線の下まで少し水を注ぐと、底まで明るく見えた。それを机の端に置き、積んでいた印刷物を横へどけた。
パソコンをつけると、昨夜作業していた直人の原稿が開いた。紬は新たに手をつける部分があるか先に確かめようとして、ウィンドウを最小化した。まだ修正依頼は来ていなかった。
散らばったファイルを1か所にコピーした。元のファイルはそのままにして、読む順番を決めるためのコピーだけを集めた。別々の年に描いた人物が、小さなプレビューの中に並んだ。同じカップを描いているのに持ち手の向きが違い、窓の外の木を最後まで描かなかった日もある。
紬はファイルを1つ開き、女の手を少し直した。誰にも頼まれていない修正だった。
水を出そうとした手を、蛇口のすぐ手前で止めた。次のコマには窓枠にとまる小鳥を入れた。女はカップを置き、鳥が飛び立つまで待つ。そんなふうに少しだけ先延ばしにした洗い物が、最後の場面だった。
鳥を見る顔まで描いてから消した。水を出さなかった手と濡れたカップだけで十分だった。画面を縮めて読むと、朝、母に見せたかった場面が少し自然につながった。
スマートフォンに直人からメッセージが届いた。
[今日持ってきたおかず、何がある?]
紬は豆腐の煮物と魚だと答えた。少し待ったが、今回も絵の話は出なかった。
新しいフォルダーの名前欄でカーソルが点滅した。最初は「個人」と書いた。その文字を消し、書き直す。
水凪。
保存した名前の下に、彼女の描いた絵が集まった。紬はスマートフォンを伏せ、最初のファイルを開いた。
この絵は、自分の名前で完成させて見せたかった。
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して







